「アドルフに告ぐ」でめぐる神戸の旅 本文へジャンプ
 

ユダヤ教会とユダヤ協会

「アドルフに告ぐ」では「ユダヤ教会」と表現されている建物と「ユダヤ協会」と表現されている建物の二つが描かれております。
「ユダヤ教会」の方は(ワイド版3巻P184、文庫版3巻P244)でアドルフ・カミルがエリザにスパイの疑いがあるとの怪電話を受けて、エリザを連れて行くシーンで描かれております。石造りの建物にヘブライ語らしい看板と、門の上にはダビデの星が描かれているのがわかります。
一方「ユダヤ協会」の方は(ワイド版4巻P139、文庫版4巻P25)でアドルフ・カミルがエリザに会いたいというアドルフ・カウフマンを連れて行くシーンで描かれています。恐らく三階建てだろう建物の上に「神戸ユダヤ人協会」の看板がのっているのが見て取れます。
現在の神戸ではどうでしょうか。

関西ユダヤ協団

シナゴーグ
2011年現在も神戸・北野に「関西ユダヤ協団」として現存しております。こちらは建物の西側の入口となってます。「OHEL SHELOMO SYNAGOGUE」と正面に書いていますね。ヘブライ語は解りませんが、英語の「シナゴーグ」ははっきりと読めます。

ダビデの星
ダビデの星もちゃんとあります。凝ったデザインです。

関西ユダヤ教団
こちらは南側の壁になります。「JEWISH COMMUNITY OF KANSAI」と書かれております。「関西ユダヤ教団」という意味の英語ですね。
二種類の表記となっていることから、恐らく「ユダヤ教会」としての施設と「関西ユダヤ人協会」としての施設の両方を兼ねているのだと思われます。

Google mapsより

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戦前の神戸ユダヤ人コミュニティーについて

現在でも神戸にユダヤ人コミュニティーがあることははっきりとしましたが、では「アドルフに告ぐ」の時代の戦前の神戸ではどうだったのでしょうか?当時の様子を記した資料よりご紹介します。
『神戸では、戦前からロシア系や中東系のユダヤ人数百人のコミュニティーがあり、ナチスに追われて日本にたどりついたユダヤ難民を受け入れた。40年夏からは在リトアニア日本領事館の杉原千畝から日本の通過ビザを受けた数千人のポーランド系ユダヤ難民が、ソ連・ウラジオストクから福井県・敦賀を経て、神戸に押し寄せた。41年12月の太平洋戦争開戦までに、神戸に滞在したユダヤ難民は計約4600人に上る。今は「異人館通り」で知られる北野・山本通に拠点を構えていた神戸ユダヤ協会が、同胞たちに宿舎や滞在費を提供した。』
朝日新聞社「写真が語る戦争」取材班『朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争』朝日新聞出版, 2009.
戦前の神戸にもユダヤ人協会があったことがはっきりとします。また、有名な杉原千畝の命のビザを受けたユダヤ人が「アドルフに告ぐ」のエリザと同様に神戸へとやってきたのです。また杉原千畝が勤めていた領事館はリトアニアですが、アドルフ・カミルの父がユダヤ難民を救おうと向かった地もリトアニアです。
またこの本には、このときユダヤ難民の様子を撮影した「丹平写真倶楽部」のメンバーの一人に手塚治虫先生の父親である手塚ゆたかさんがおり、撮影された写真の一枚にユダヤ難民と手塚治虫先生の弟の手塚浩さんが写っている写真が「アドルフに告ぐ」と共に紹介されています。手塚治虫先生は撮影時は一緒ではなかった様ですが、当時の記憶ははっきりと残っていたのだと想像できますね。
通過ビザだった関係か、「アドルフに告ぐ」のエリザとは違いユダヤ難民の人たちは数ヶ月神戸で暮らした後にアメリカやパレスチナ、中南米へと再び旅立ったということです。では短い期間ではありますが神戸ではどのように暮らしていたのでしょうか?再び資料から紹介します。
『政府は同盟国ドイツへの配慮からユダヤ難民に冷淡だったが、庶民は温かかった。歴史家のデビッド・クランツラーは著書『日本人とナチスとユダヤ人〜上海のユダヤ難民コミュニティー〜』の中で「神戸に難民への反ユダヤ主義はなく、あるのは情けと親切だけだった」と記述した。
神戸市灘区の牧師、斉藤信男さん(81)の父親の故・源八氏は、旧日本ホーリネス教会の牧師だった。ユダヤ難民を教会に招いたり、宿舎でリンゴを配ったりした。当時中学生だった斉藤さんは「父の教会に遊びに来た難民がダンスを踊り、その表情があまりに明るかったのが印象的。命からがら日本に着いてほっとしたのでしょうね」と話す。
神戸で貿易会社を営んでいた故・トーマス・トールドセンはドイツ人だったが、神戸ではユダヤ人社会とも事業などを通して関係があり、難民支援に協力していたという。おいで大阪市立大学名誉教授の林直道さん(85)は「ドイツ領事館からは『おしかり』を受けていたようだ。戦後、おじが母国への送還をまぬがれて神戸で事業を続けられたのは、ユダヤ人たちの嘆願のおかげだったと聞いている」と話す』
朝日新聞社「写真が語る戦争」取材班『朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争』朝日新聞出版, 2009.
違う宗教の教会の牧師の方や、本国では迫害しているドイツの方が手助けをしていたということは、人種や国家、宗教に関係なく親切であったということでしょう。神戸らしい話だと思いますし、手塚治虫先生も「アドルフに告ぐ」で大きく反差別を描いています。
現在の神戸でも様々な人種や宗教の方がおられますが、平和に暮らしています。イスラム教の人たち向けの食料品とユダヤ教の人たち向けの食料品が同じ食料品店で売られていて、お互いに交流を持って買い物をしているらしいです。世界もそうあってもらいたいと切に願います。
また、同時期の神戸の姿を描いた小説「火垂るの墓」のなかでも清太の回想の中でユダヤ難民の姿が出てきます。
『最後までケーキを出していたのは三宮のユーハイム、半年前にこれで店閉まいだからと、デコレーションケーキをつくり、母がひとつ買って来た、あすこの主人はユダヤ人で、ユダヤ人といえば昭和十五年頃、清太が算術なろうとった篠原の近くの赤屋敷に、ようけユダヤの難民が来て、みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て』
野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』新潮社,新潮文庫, 1972.P24
ユダヤ人との文化の違いを不思議がっている清太の様子が見て取れます。作品設定上、昭和15年ごろは小学生ぐらいの年でしょうから当然の反応でしょう。ユーハイムは今も元町などにありますね。
注目は「篠原の近くの赤屋敷」という記述ですが、篠原は現在の神戸市灘区の阪急沿線北部にあたります。恐らく上記の神戸市灘区の斉藤さんの教会のことについて、もしくはその近辺の建物をさしているのは間違いないです。
これらの資料から「アドルフに告ぐ」はフィクションの物語ですが、当時の神戸はこの作品に描かれているような様相が実際にあったということがよく解ります。
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